それは些細なことだったけれどもマコトにとっては充分なことだった。 昼の間に送っておいたメールに閉店後返信が来ていたので、嬉々として愛車を走らせた。 気温は小春日和というより初春の暖かさに近くてエンジンのかかりも良かったのが嬉しい。 薄ら寂しいだけのコンクリートの道も、まるでおいでおいでしているように青信号でマコトのバイクを迎えた。 その調子に休符を与えたのは、鼻唄混じりに軽いステップで階段を上がり、乗り込んで行った扉の先だった。 おぉ、と相変わらずの気だるさで迎えた本人の、違和感に体がこわばったのは本当に驚いたからで、 ほとんど反射的に「え」だの「う」だのの声が、間抜けに小さく開いていた口から漏れていた。 マコトが美容師でなければこれ程驚かなかったかも知れないが、それでも実際彼を知っている人から見たらかなりの違和感だったろう。 「ど…うしたの、頭。」 「ん、ぁあ、染めたっつーか染めさせられたっつーか。」 その、突如黒くなった髪を見つめる。言い知れないショックと確かな見慣れなさに気を取られていた。 だからKKが部屋へと向かう為背中を向けるタイミングだとか、 この時分なら普段は3分の1程閉まっているカーテンの具合だとかにはまだ気付かなかった。 がしかし、通り抜けたダイニングの椅子にかけられた上着のポケットには、 部屋へ帰ると律義に充電器に収められるはずの携帯電話の、その存在を主張する膨らみが。 テーブルの上には外されたらベッドサイドの、灰皿の横に鎮座ましましているはずの彼の中指のリングが。あって。 ここで初めてマコトはおや、と思う。 直後に気付いたのはもっともおかしなことに、コンロの上に都合良く置いてあった鍋を使おうと思って覗きこんだら、 中にマグカップが入っていた。 「???」 盛大に疑問符を浮かべながらその白い割れ物をとりあえず摘み出す。 振り返るとKKはリビングのソファに腰掛けて読みかけだったのか広げた英字新聞なぞを手に取っていた。 「仕事でちょっとなぁ、」 「…おじーちゃんがやってくれたの、」 「うんにゃ自分でやった。」 「ふーん…。」 まるでいつもと変わりないように見える。 が、何より確信を与えたのは視界の端に映ったベランダで、冷えた空気に風邪をひきそうになっている小さな葉の鉢植えだった。 あるべきものが、あるべき場所に、無いという違和感。 針の先程の誤差も許さぬ程の神経質ではないものの、 勿論彼の仕事中はその誤差が文字通り命を左右するのだけれども少なくとも私生活において、 KKは自分のスタンス、習慣、リズム諸々といったものを滅多に乱しはしない。 マコトのように部屋の中で失せ物もしないし、小汚い割に寂しい程に清々しい。 ひとつふたつなら例外があってもおかしくないが、ありえないのだ、こんなに乱れることは。 マグカップの件については有り得ないを通り越して大分間抜けで笑いすら誘う。 それだけに、気付いてないことが重症さを訴えている。 マコトはマグカップをそっと片してから、さも今気付いたかのように言った。 「けーぇ、ベランダの鉢、出しっぱなし。可哀想じゃん。」 「…あ、」 忘れてた。小さく呟いて移動する背中を眺めながら次の台詞を考える。 「あのさぁ、KK?」 出てくる答えはひとつだった。 「疲れてんなら、寝てていいよ。」 小さな観葉植物の鉢植えを抱えた彼の見慣れない黒髪が顔に影を落とす。 色が重くなった分、一段階落ち着いたトーン。かっこいいものはかっこいいやと、マコトは素直にまた見とれていた。 「やー、別に疲れてねぇけど?」 自覚が無いのも予想するところだったので、 「夕飯作ったら呼ぶからさ、休んでなよアンタは。」 さっき決めた、今日は甘えさせてやるから、ということを恥ずかしくなく自然に言えるタイミングはいつだろうかと計りながら、 KKの手から受け取った鉢植えを、テーブルの所定の位置、真ん中に置いた。 KKの目線は鉢植えを追い、暫く止まって沈黙が流れる。少しだけ間の抜けた、心地好い沈黙。 「……ぁーー…。」 肯も否も定まらないうめき声が漏れ、 「んじゃー…ちょっと休むわ。悪ぃ。」 ややあって腕がゆっくり伸びた。置き忘れられた銀色を掴み、かけられていた上着のポケットを探り出すのを見て、マコトはホッとした。 「メシ、何だって?」 「オムライス。」 「中身、チキンライスな。」 「当然。」 「卵、ふわふわにしろよ。」 「はいはーい、善処しますよ。」 若干ふらふらと、寝室に引っ込んでいく様は、 触覚を片方切断されてバランスの取れなくなった昆虫を連想させて、マコトはますます可笑しくなった。 柔らかい視線でその背中を見送った。 ※ あたたかな毛布を肩まで被ってまどろんでいると、優しく肩を叩かれた。 それまでの人生、そんなものとは無縁だったせいなのか、それとも余程マコトのそれが上等の域に達しているからなのか、 その優しさはKKを酷く安心させた。 そのまま目を閉じていると、マコトが腰掛けたのか、ふわんとベッドが揺れる。感じた浮遊感にKKはますますまどろんでいく。 「K。」 何だよつまんねぇな、もう終わりかよ。もっとまどろんでいたかったのに。 ほんの少しだけ目を細く開けると、暗い部屋に差しこんだリビングの明かりを背に、マコトが覗きこんでいた。光の透けた柔らかいオレンジ色。 「ねぇ、」 さらり、腕の動く気配と髪に触れる感触。状態を確かめるようにマコトが絡め取った髪は、指の間からするりするりとこぼれていく。 「これ、染め直すの、」 「…………。」 もそそり、毛布とシーツの作る摩擦の音だけで横着な返事をする。 「じゃあ、俺が洗ったげるよ。ううん、洗わせて。…ね?」 更に体重がかかってベッドがキシリと鳴る。横たえたままのKKの身体が沈み込む。 眩しいと思っていたリビングの明かりがマコトの身体で完全に隠されて、守るように影が落ちていった。 子供にするように髪を頭を撫でられ続けていても、不思議と何の抵抗心も湧いてこないのは、 そうすることでたしなめられているのがマコトの方な気がしてならないからだ。 その、一定のリズムの柔らかい仕草は、やはり眠気を誘った。 「…専属美容師、お役御免なのかと思った。」 ポツリと呟かれた声は、拗ねてもおらずましてや咎めるものでもなかった。 「……お前ぇは俺の髪、世話すんの好きな。」 だから判りきっているはずのことを聞いた。 「そりゃあ、……アンタ素が上等だし、特に。でも、」 穏やかなマコトの声に安堵するのは、どうやら自分は相当疲れているかららしいと、KKは聞きながら今更の自覚をしていた。 「自分の仕事で、好きな人の、役に立てるなら、最高に嬉しいじゃない。」 アンタだって毎週欠かさず掃除に来てくれる。あの時間が代え様も無く好きなんだとマコトは思う。 例えば珈琲をいれるのだってご飯を作るのだって、出掛けにゴミを出してあげることも洗濯物を畳んであげることも、できるけど。 自分に特別なのはやはり。 「だからしてあげたい。させて欲しいと思うんだ。今日は甘えていいよKK。」 と、マコトが言うからきっとこのキスもその法則から成り立っているのだろう。疲れていたからその夜は、何度も何度もキスをした。 -------------------- だ…っうぁ!!!もぎゃぎゃ!! 珍しく甘やかされまくりのけけさんでした。いろいろややこしくしすぎた。 指示語多様、主語多様、感情移入不使用、という微妙なお題が秘かにてんこ盛りでしたお粗末。 06.03.02 |