まがまがしいものが、こっちへおいでと手招きしている。
あれは不安と恐れと憎悪の根源だから、近寄ってはいけない。
目を背けて唇を一文字に結んでお前なんかいらねえよと背を向けたら、
向いた方向、目の前の真近いところに回り込まれて、怯んだ隙に、
黒くてどろどろしたものに足を捕られた。

ガクン、ずるり、ず、ず、…ず。
黒い透明な沼のような絶望の底へと、徐々に沈んでいく身体が恐怖に強張る。耐えられなくてもがく。
沼の中には恐ろしいものが沢山沈んでいる。
己の牙と剥き出しの悪意、
畏怖の眼に晒されることの恐怖、いつか泣かした赤ん坊の顔、
何処まででも追いかけて来た幼い頃の闇の森、木々、悲鳴をあげて渡る風、
満月の夜に狂って叫ぶ自分の声、
殺した数だけ骨と肉と血と、そう、血の、赤、赤、赤、
やがて沼は生気の無いどす黒い静脈色に染まって、
どんどんどんどん重くなる身体にへばりついている魔物を見た。

イヤダコワイタスケテダレカ




「―――――…っ!!!」

叫んだ声は喉に詰まって空気を振るわせることはなかった。
「…っう、わ………」
その代わり荒い息が狭い気管を行ったり来たり、ゼイゼイと意味のない音を出していた。
反射で自分は飛び起きたらしいことが、太ももから背中にかけての筋肉の痛み様で判った。
続けて柔らかいブランケットの色と、右腕にぶつかる見慣れたソファの背もたれ。

「……ぉ…?」
視線に気付いて左を見れば、

二人の魔物の、驚いた赤い目が呆けたように、こちらを見つめていた。
「…………。」
「…「うわお」?」
髪の蒼色の濃い方が、口にしたスナック菓子をぽとりと落として呟いた。

「あ、いや別に「うわお」って言いたかった訳じゃなくてですね、」
引きつったままの喉で乾いた舌で、どうでもいいことを説明しだす。とにかく何か考えたくて。
「夢でも見たか?」
「は、」
「急に飛び起きるから驚いたぞ。」
「はぁ、スンマセン。あー何か、恐い夢見た…ッス……。」
強張った筋肉と空気をほぐすように、あー恐かったーエヘヘヘヘと照れ笑う。
「やっぱこんな所で寝たのがマズかったんスね、こりゃ。」
「まだ寝ていろ、お前が仮眠し始めてからまだ数分しか経ってない。」
「えー。」
「夢って思ったより一瞬で見れちゃってるモンなんだよネェ。」
壁の時計を見上げると、本当に長い針が数目盛り分進んだだけだった。だがもう、夢の国に返る気は到底起こらない。
アッシュはぶるると身震いすると、
「や、もう起きるッス。」
言って横に伸びて占拠していたソファから動き出そうとしたのを、
「ここが寝心地が悪いと言うなら、」
遮られた。
ユーリがよいしょと自分の背後にまわり、ソファの、さっきまで肩を埋めていたあたりに腰掛けた。

「これでどうだ。」
ぐい、せっかく起こした上体を引っ張られて、無理矢理寝かせられる。
意図を汲んでごそりと身じろぎをすると確かに、枕の代わりに頭にあたる、柔らかな彼の太ももの部分。
「…ユっ、」
「さあ大人しく目を閉じろ。」
白い手が瞼に降りてきて問答無用で寝かしつけようとするので、
アッシュは口をもごもごさせただけで気恥ずかしさとの戦いを数瞬で切り上げざるを得なかった。

「ヒヒヒヒ、いいないいな膝枕〜♪」
羨ましそうな言葉に反して口調はからかうでもない優しそうな。
目を閉じた向こうでスマイルの声と古いギターの静かな音が聞こえる。
じゃかじゃん、じゃん、ぽろろん、とかき鳴らされた後にピン、と弦は一度弾かれ、
ゆるやかなメロディーを奏でる。

それは誰でも。
この国の住人なら知っている曲で。
曲、というより唄で。
何を歌った唄かといえばそれは。

「……ふ、」
一度吹き出した後ゆっくりゆっくりとユーリは歌う。
なんて豪華な、子守唄。



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…凄く欝だった時、晴らす為に書いた欝ッシュ。
05.12.28




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