「バレンタイン?」 ゆったりとしたロッキングチェアに腰掛けたまま、読んでいた本から顔を上げたユーリは、眼鏡越しにアッシュを見つめた。 伊達なのか、近視なのか。もしかして老眼鏡ッスか、なんて聞いたら絶対に会話が前に進まないことを知っていたので口にはしなかった。 「はぁ、去年は急に、死ぬ程旨いフォンダンショコラを食べさせろっつってたッスから…。」 ああ、吸血鬼だから伊達に決まっている。ユーリの身体能力は文字通り化け物並みなんだから。 アッシュは金色の細い鎖が、白い頬の横で揺れるのを珍しそうに見つめていた。 「…今年もリクエストがあるなら聞いておこうかなー、と思って。」 伊達眼鏡なんて。こういう小さなことひとつとっても、本当に人間の真似が好きな人だなぁ…。 「成程。…ところでアッシュ。」 「はい?」 ぼんやりと顔を見つめる視線に気付き、ユーリは軽く笑いながら問うた。 「上の空で話をする程私は安い相手なのか?ん?」 縁の無い薄いレンズ越しに見上げられ、見とれていたことがばれたことを悟った。 「ぁっ、スンマセン!……その、ユーリ、眼鏡も似合うなぁ…って思ってたんス…。」 素直にありのまま答えたアッシュに、ユーリはフフンと笑って、 「より聡明かつ理知的に見えるだろう?」 と言った。 「はい。可愛いッス。」 「……馬鹿者。」 ユーリは呆れた表情を作って読みかけだった本を閉じた。 内心では、アッシュが持ちかけた話題に、少しばかり複雑な気持ちだった。当日まで、あと何日だったか……。 「で、バレンタインなんスけど。」 「ああ。」 「今年は何のチョコがいいッスか?」 「相変わらず乗り気だな。」 「そりゃあ、楽しみッスから。」 何が、チョコを作ることが、それとも食べさせることが、もしくは誰かにチョコを貰うことが、とは聞けなかった。 代わりに何とか会話の糸口になりそうな情報を、ユーリは思い出した。 「…金欠ではなかったのか?」 「ぅ…。だ、大丈夫ッスよ。材料費はちゃんととってあるッスから。」 「準備がいいことだ、」 と言いながら、それならば…と、ごく自然な流れになるように努めて続きを言ってみた。 「貴様が作るのもいいが、たまには私が作ってやるというのはどうだ?」 「あっはっは、何言ってるッスか。作る気なんてない癖にぃ!」 「っ!」 「それにまたキッチン爆破されちゃ敵わないッスからねー。」 「…………。」 「…あれ、ユーリ?」 愚か者は直ぐには自分の失態に気付かない。そういうものだ。 「……貴様はバレンタインがどういう行事か知っているか?」 縁無しの眼鏡をゆっくりと外し、ユーリはゆらりと立ち上がった。反動でロッキングチェアは気持ちの悪い揺れ方をした。 「え、…え?」 「私は知っている。もちろん知っているとも。バレンタインデー(St. Valentine's Day)! 現代では2月14日に祝われ、世界各地で男女の愛の誓いの日とされているが元来は、 紀元前269年に聖ヴァレンティヌスがローマ皇帝の迫害下で殉教した日に由来している。 当時ローマ皇帝は兵士を堕落させる恋愛、結婚を禁じていたわけだ。 が、司祭だった聖ヴァレンティヌスはこれに反対し、密かに沢山の男女を結婚させ、結果皇帝の怒りを買い処刑された!」 「あの、」 百科事典をそのまま読んでいるかのような台詞をよどみなく、早口でまくしたてる。ブレスをするタイミングでアッシュが反論しようと口を開くも、遮られ。 「つまり!その身を犠牲にしてまでも恋人同士をくっつけたがった、お人好しのキューピッドの記念日というわけだ! そんな日に!浮かれてチョコをプレゼントするなど恥ずかしくないのか貴様は! ヴァレンティヌスに対する感謝の気持ちや偲ぶ思いこそあれ「今年は何のチョコがいいッスか〜?」などと馬鹿丸出しだな! 大体、そのチョコを贈るという風習は現代日本の菓子業界の陰謀に過ぎない!明●製菓に踊らされてそんなに楽しいのか!」 「何スか急に…っ?」 「私は!」 叫んだユーリの胸元で、パキっという音をたてて細いフレームが握りつぶされた。金の鎖はプツリと切れた。 ゆらゆらと、二人の後ろでロッキングチェアが揺れ続けている。 「もう、貴様のチョコなどいらん!毎年毎年、城中に甘ったるい匂いを充満させやがって迷惑なのだ! 大体、男の癖にバレンタインチョコなど作って、喜ばれると思ってるのか?誰も貴様のチョコなぞ望んでないっつーの!いいか!今年は絶対、」 「ちょ、ユーリ!」 「貴様のチョコなぞいらん!」 バン! パリーン! 言い捨てて、ユーリはテラスから外へ飛び出していった。真紅の羽を広げ、飛び立ち、直ぐに闇にとけて見えなくなる。 乱暴に閉められたガラス扉が割れて、2月の冷たい風がひゅうひゅうと城の中に入り込んだ。 あまりのことに呆然としたまま、アッシュは追いかけることもできず立ち尽くす。 無意識の内に口元に手をやって、ようやく取り返しのつかない失言を自覚した。微かに震える唇で、 「俺だって、…別に、ユーリに食って欲しくなんか…ッ!」 呟いた。 吹き込んできた風の所為でなく、青ざめて目を伏せた。こんな時すら、部屋着のままこんな寒い外に飛び出して…と、心が隅の方で勝手な心配をしていた。 未だキィキィと揺れているロッキングチェアの上で、ユーリが放置した本がめくれる。 カバー表紙は音楽雑誌だったそれの、パラパラと風に煽られ続ける中身が手作り菓子のレシピだということに、犬は未だ気付かずにいた。 >>NEXT |