春秋の争い うすい水色の空が広々と広がっている。 さっきからもう、ずっとこの空を眺めているが、空と同じくらい薄っぺらい雲と、鳥が数羽通った以外、そこには何も無い。 さわさわと、ご機嫌に風に揺れる草の生えた丘に座って、 「何やってんだろ…」 はぁーーーっ、と深いため息をつくと、アッシュはとっくに空になっていたコーヒーの缶を傍らに置いた。 通り過ぎる秋の風は冷たくて、いつでも火照った体温の自分に心地良かった。 そもそも何故自分がこんなところで秋空を眺めてぼーっとしていなければならないのか。 喧嘩は割と日常茶飯事だった。四六時中口論をしている自分達について、ふと我に返ってしまうと本当に判らなくなる。 「ホラホラ、喧嘩する程仲が良い、って言うじゃない〜。」 と、スマイルが珍しくフォローを入れてくれても、アッシュの心は収まるものの、 「こんな犬っころと、仲など良いものかっ!」 と言われて自室に籠もられるのが関の山だった。 だから、今日も今日とてユーリ城では喧々囂々、アッシュとユーリは言い争いをしていた訳だ。 理由は聞くも語るも虚しさに耐えかねるような食い意地の話で。 誰がどう見たって明らかに、今回はあちらに非があるはずなのに。少し言いすぎたかと、売った言葉と買った言葉を思い返す。 「ここに置いてあったクッキー食ったのユーリっしょう!?」 「……騒々しいな、クッキーの一枚や二枚で…、」 「い、一枚や二枚ってもんじゃねーッス!あんた、これ、テーブルの上に置いてあったやつほとんど食いましたね!? 何枚あったと思ってんスかっ!大体また、夕飯前にこんなに食って…っ!ていうか、」 「夕飯は別腹だ!」 「ちっがーう!俺は、俺はそういうことを言いたいんじゃなくてですね!」 「何だというのだ、置いてあったから食べたまでだ!」 「勝手に食べないで下さいよ!布巾かけといたじゃねーッスか!近くに他の材料も!あれまだ作りかけだったんスよ!」 「ム、何だと、あれは生焼けだったのか…?」 「生焼けじゃねーッスけど!」 「じゃあ良いではないか。うまかった。ご馳走様。」 「…っだから!作りかけだったって言ったじゃないスか!あれはクリームサンドクッキーにするつもりで、ていうか、 どう見ても明らかに作りかけだったじゃねッスか!人が苦労して作ってる最中だったのに!酷いッス!」 「何が「明らか」か!そんなに食われたくなければ、今度から布巾をかけるなどという中途半端なことをせず、 「作りかけッス」とでも書いた看板を立てておけ!」 「あんたねぇ…!周りにカスタードクリームの入ったボウルとトッピング用のスライスアーモンドとかドライアップル、 これ見よがしにスタンバイしてあったじゃねぇッスか!あれと片付けてない天板とか、その他諸々、見れば赤ん坊だって作りかけだって判るはずッス!」 「赤ん坊にそんな知恵はないっ!」 「それは言葉のアヤッス!あーもーっ!」 …最後はユーリの馬鹿!と叫んだ気がする。今時の小学生でも、もう少し複雑な悪態をつくだろう。自分のボキャブラリの貧困さに目眩がした。 「あー…馬鹿なこと言っちまったッス…。」 まさに馬鹿と言う奴が馬鹿、ってやつだ。多分、馬鹿と言い捨てて部屋を飛び出さなければユーリもそう言い返したことだろう。 やるせなくて傍らに置いた缶コーヒーに手を伸ばし口元へ持って行くも、そういえばこの缶はとっくに空になっていたのだった。 「あ゛ーーー…………。」 ウダウダした気持ちのまま草の地面にゴロリと転がった。少し首を横に傾けると、草の、のどかな匂いがする。 よく晴れた、秋の空の下で。できればこのまま何も考えたくないのだけれど、不器用な脳味噌はそのようなこと許してくれなくて。 鼻先に触れた葉っぱを行ったり来たりする季節外れのテントウムシを、焦点も合わない距離で眺めつつ、アッシュも思考の小路を行ったり来たりし続ける。 創作途中のものに手をつけられたことも、苦労して作ったものを食べられたことも。 何処に一番腹が立つのかと言えば、「無断で」のところな気がする。 せっかく最高の食感を求めて綺麗に薄く焼けたクッキーに、ふわふわに混ぜたカスタードクリームか甘さ控えめのチョコクリームを挟んで、 バリエーションを考えてスライスアーモンドとドライアップルを小さく砕いたものをトッピングするつもりだったのだ。 紅茶も、ミルクティーにしようと思ってディクサムの、ちょっと奮発して最高級のものなんかを用意していたのに。 ポットもカップもきちんとあたためて、完璧に時間を計って葉を開いて。たっぷりのミルクと、お好みでハチミツも使えるように。 「完璧な形で食べてもらいたかったんスよ…。」 何故なら細やかに計画していたそれら全て、数百年生きている吸血鬼の舌を唸らせることへのチャレンジ精神もあるし、 目の前の彼を微笑ませたいという単純な欲求や、甘いお菓子と温かい紅茶のもたらす癒しの時間を提供したい純粋な心のためであったのだ。 そして、今胸で燻っているのは、それら全てを台無しにしたのが対象その人であることのやるせなさと、「無断で」やられたお陰で結局、 一番満たしたかった自分の心がちっとも満たされなかったことへの腹立たしさ。 ああ、そうか……。 ユーリのため、とか考えてたけど、結局一番見たかったのは。 自分が用意したもので、満足そうに微笑むユーリだったのだ。 退屈を嫌う恋人が、目の前に果てしなく続く時間に少なからず不安を覚える瞬間があることを、アッシュは知っていた。 勿論特にそう感じる出来事があった訳でも、ましてや本人から聞いた訳でもないので正確には知っていたのではなく、感じていた。 そして確信していた。例え瞬きをする一瞬だけだとしても、漠然とした不安が彼を襲うことがある。 時によってその不安は全く気に留めることもなければ、一笑に付して素通りすることあれば、その逆に心を波立たせることがあるのだろう。 例えば外がよく晴れていたからとか、読んだ本がつまらなかったからとか、寝る前に喉が渇いていたからとか、どんな引き金でそうなるかは判らない。 だからこそ、自覚の有る無しはともかく、ユーリは退屈を嫌うところがあるのだと、そう、アッシュは認識してきた。 そんな彼の、感情が変わる瞬間がアッシュは大好きだ。 からっぽに思える時のあるユーリの中が、驚きや喜びやありとあらゆる感情で支配されている瞬間は(実際、印象よりはるかに多種多様に変化する)、 アッシュも安心していられる。 とりわけ、その感情を作り出したのが自分である時などは、どういった感情であれ表に出してくるということは、少しは自分の事を特別に思ってくれているんだろうと思えて、特に。まあ、その内の半分くらいは彼を怒らせたりイラつかせたりといった歓迎できない方向なのだがそれでもいいのだ。無論歓迎できる方向の方が良いに決まっているので、アッシュは自分の料理にユーリが満足してくれることをとても大切にしてきた。 ユーリの笑顔が見られて、自分も嬉しい。両方がいっぺんに手に入るこの方法は、もしかしたら自分の強みであり切り札なのではないかと、最近よく思っている。 うまかったって言ってたし、ユーリはツマミ食いでそれなりに満足したみたいだし。 クッキーは、また作ればいいか。食べてくれるなら。 テントウムシの飛び立つ微かな羽音で我に返る。低いところでうねっていた心は思考の小路を行き来する内に凪いでしまった。 どんなに理不尽に罵られようと、意地汚いところを見せられようと、腹を立てようと、最後には許せてしまうのは、 アッシュの性分でもあるのだろうが本質的なところで大きな原因があるのだ。 「惚れた弱みってやつか…。」 ため息と共に体を起こした。うすい水色だけだったはずの空が、西の方から微かに暖かい色味を持ち始めていた。 城を飛び出した目的どおり、頭が冷えたので、これで残る問題は「この後どうするか」だけになった。 「素直に謝るとは思えないしなぁ…。」 次へ> |